「使いみちのない風景」ー村上春樹
村上春樹の本に「使いみちのない風景」というタイトルの本がある。140ページ余の薄い本で、写真が1ページに1枚ずつ載せてあって、しかも余白が多い。あるテーマの下に集められた写真集(例えばネコの写真集のように)、というわけでもない。数ページにに一言、村上のコメントがポソリと載せてあったりする、なんとも内容が薄いといえば薄い本である。
村上春樹は、何故なのかはっきり分からないが忘れられない、心に引っかかっている、「使いみち」はないが自分にとっては大切な風景があるのだ、ということを言いたくてその本を書いた。
「使いみちのない風景」を、私は「使わせていただく」ことがある。どこか余裕がなくなっている自分に潤いが欲しくなった時、あるいはあまりにも”現実”にどっぷりとハマってしまって身動きが取れなくなっている人に心の余白を作って欲しいと思う時…。
村上春樹は、ある風景が心に残るのは、その時の自分の心の状態とその風景がマッチしていたからではないか、と推論する。そうなのだろう。しかしその場合の、「自分の心とその風景がマッチする」とはどういう状態なのだろう。
たとえば、「遙かなるノートルダム」などの作品を書いた森有正という仏文学者は、長いパリでの生活を送るなかで、彼が通いつめたノートルダム寺院が「変貌」してきたということを詳しく書いている。実際には石でできたノートルダム寺院の形や色が変わるはずはない。パリで生活することで、彼自身が変わってきたためノートルダムが変わって見えてくるのだ、と森は考える。だからノートルダムが、ある時は夕焼けに燃えるようであり、ある時は静謐かつ理知的な相貌を呈するのだ、と。これは、ある意味で常識的な結論だと思うのだが、彼はその「変貌」こそが「経験」と呼ばれるものであり、一つの「人格」を定義するものなのだ、と考える。そこに彼の洞察がある。
そうだとすると、村上春樹は風景の中に自分の「心」を映していたのであり、その風景が心に残っているということは、その時の彼の「心」自身が彼にとっては忘れ難いものであった、ということだろう。さらに、その「風景」こそが彼の「心」あるいは「人格」そのものだったのだ、ということにもなってくるのではないか。たとえそれが「使いみちのない」、すなわち人に言ったり作品に残したりしたくなるようなものではないにしろ、だ。
村上春樹の本も、森有正の著作も、「風景」がいかに強くその人の「心」、もっと言えば、「その人自身」を映すものであるかを物語っている。ということは、私が日々診察室の中で出会う人達の相貌は、私の人格の反映である、ということになるのではないだろうか。これはえらいことである。なんとか患者さんたちの顔が美しく見えるように、日々自分の人間性を鍛えなくてはいけない。
やや冗談めかしてしまったが、診察室での出会いが、使いみちはないが「わすれられない」、かけがえのないものとなるよう日々の診療にいそしみたい。
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